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Please use this identifier to cite or link to this item: http://hdl.handle.net/20.500.12001/24828

 
Title :戦時下における首里城と円覚寺の喪失-二つの国宝、運命の狭間-
Authors :下郡, 剛
Authors affiliation :総合科学科
Issue Date :16-Mar-2021
Publisher :沖縄工業高等専門学校
Type Local :紀要論文
Type (NII) :Departmental Bulletin Paper
ISSN :2435-2136
Abstract :沖縄県立博物館・美術館には戦前、首里円覚寺が所蔵していた三牌のうち、一部が現存している。それらは大きな損壊を受けながらも、色彩鮮やかであり、かつ焼け跡がない。円覚寺は隣接して存在した首里城とともに沖縄戦下の空襲で焼失したとされている。首里城の焼失時期は諸説あり、現在なお不明とされる。本稿では、首里城焼失日の検討を通して、円覚寺の三牌が色鮮やかに残った理由について考察した。 戦前の首里城の最後の姿は、米軍が1945年4月28日に撮影した写真に残っている。他方、首里城が失われたことを示す日付が明確な最初の写真が撮影されたのは、1945年5月18日である。よって、この間に失われたことは確実であり、この期間中のものではない諸説は全て誤りとなる。この期間中に首里城が燃えている様子を見たとする証言の中に、1945年4月29日の避難途中に炎上中の首里城を至近距離から見たというものがある。米軍の攻撃は既に終了しており、真昼間だったという。他方、別角度から炎上中の首里城を目撃した証言の中には、米軍の攻撃が収まってきた直後の夕方に見たが、日にちは覚えていない、とのものがある。二つの証言の前後関係を比較すると、既に攻撃が終わっていた真昼間の証言が後、攻撃終了直後の夕方の証言が前、ということになる。そして、真昼間の避難途中の証言は、4月29日であって、天長節だから記憶している、とのことであるため、攻撃終了直後の夕方に見たとの証言は、その前日以前の姿ということになる。そして前日の4月28 日の首里城が写真に残っているため、その炎上は4月28日の写真撮影直後に限定される。 米軍の首里城への攻撃は、首里城をターゲットにしたものではなく、地下に構築された日本軍陣地を目的になされた。地下構築された陣地を攻撃するために、米軍は、遅延信管付きの大型爆弾を使用した。それは、発火を目的としたものではなく、より狭い範囲に爆発の威力を集中して及ぼす意図をもってなされた。それでも首里城は発火したのではあるが、隣接した円覚寺は発火を免れた。円覚寺は爆風によって倒壊したのである。そして倒壊した殿舎が文化財の上に覆いかぶさることで、円覚寺の文化財は、1945年の短い梅雨を乗り越え、今なお、色彩鮮やかに残っているのであることを指摘した。
Rights :沖縄工業高等専門学校
URI :http://hdl.handle.net/20.500.12001/24828
Citation :沖縄工業高等専門学校紀要 = Bulletin of National Institute of Technology, Okinawa College no.15 p.23 -56
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